別冊クラッセ|理想教育を拓く人々|田島伸二















 1. ヒロシマの記憶
 2. 故郷の忘れもの
 3. 学生運動とインドの世界
 4. アジアと識字教育
 5. 寓話の可能性
 6. 子どもたちへ
 7. 同時代と夢






ヒロシマの空は、何色ですか。

ヒロシマというと2つの色が出てきます。青い空と、どんよりと曇った灰色の空ですね。これが交互に出てくるんですね。


■交互に?

青い空は新鮮で明るいイメージです。私は中国山脈に抱かれたような山の中で育ちました。広島市から50キロ離れている三次というところです。そういう山の中ですと気候の変動は激しく、雲も大胆に動いていく。そこでは明るい青い空と黒い雲とが絶えず交互に動いている。

ですから、ヒロシマの空と言えば青と黒のイメージが常に揺れ動いているのを感じますね。


■風は。

風も吹いています。とくに、風の中で揺れている雑草を見るのが好きですね。自然の中で、ただ揺れている。あそこの空間が永遠じゃないかなと思えるんです。


■後年、主にアジアを拠点に広範囲な活動をします。どこか似た風景はありましたか。

子どものときの空間はアジアに行くとあります。だが、今の広島は、三次も変わってしまっていますね。コンキチの世界になり果てた。

僕が聖地にしていたようなところを縦貫道路が通ったり、川も全く形を変えてしまった。人との付き合い方もトランスポーテーションも変わっています。

ただ、子どものときに見た、あちこちから立ち昇る夕餉の煙というものが、ネパールやインドネシア、あるいはインドとかに行くと、どこかで見たような懐かしい気持ちにさせてくれる。




■ヒロシマは何を連想させますか。

ヒロシマというと私の中には三次と広島という2つのイメージがある。まずは三次ですね。三次は面白い土地柄です。出雲の文化に古代より影響されており、古墳などは三千基とも二千基とも言われるぐらい全国でも非常に多い地域です。私の家にもたくさん山がありますが、そのほとんどが古墳なんです。縄文や弥生の土器も出たり、文化的には非常に面白い空間にあったわけです。

また時代が下りますと、山陰で力を持っていた尼子と広島地方の毛利一族がいつも三次あたりで戦っていたらしく、古戦場の跡がたくさんある。家はなんでも甘子の子孫とか言い伝えがあったようで、一族は戦争で絶えてしまったなどと。(笑)

そんな環境に僕は生まれ、育ち、そして三次を出て広島市に住みます。


■広島ではどんな思い出が。

広島というとき、直ちに思い浮かぶのはやはり原爆なんでしょうね。小学生のときに、1か月か2ヶ月に1回、学校で映画を見せてくれました。そのなかで「光の教室」という映画がありましてね。第五福竜丸が死の灰を浴びた映画です。それを見たときに凄い衝撃を受けましたね。

原爆が落ちた時、近隣の人々が助けに行った。家の近所にも、直接被爆はされなかったものの、焼けただれた方々を助けに行って、そのために二次被爆された方々がたくさんおられたんです。そういう人たちは遺体を焼くために広島から三次まで貨車に乗せて三次のグラウンドで遺体を焼いたわけです。小さな頃からそういう話をよく聞きましたね。

ですから、放射能の恐怖というのは実感として体験として確実に私の中にあって、そのため、その後も、ビキニで大きな水爆実験が起きたり、原爆実験が映像で流されたりすると震えるようなショックがありましたね。


■戦争はリアルタイムの原風景だったと。

小学校の時分には傷痍軍人がたくさん身近にいました。子ども心に片足がないとか、腕がない人とか、アコーディオンなんかにかしずいていて、そういう姿をずいぶんとあちこちで見ました。三次でも広島でも。

「私の先生は軍曹だった」を書きましたが、これは中学校のときの思い出です。軍曹として満州に行って帰ってきた人が雨の日に戦争の話をする。それこそ南京大虐殺のような生々しいことを話す。これを聞いて僕はビックリしてしまうわけですね。

ちょっと手柄話などから始まって、敵兵を殺したり、輪姦したり、やりたい放題のことをやり尽くして、最後の方で戦争はよくないと言うんです。しかし、最後の最後に、戦争ほど面白いものはないって締めくくるんです。

これが実態だなと思いましたね。何でもできるけのうって広島弁で言うんです。考えてみたら日本陸軍は要するにあらゆる物資の調達を現地調達しています。現地調達というのは、要するに、みんな勝手し放題で、食べ物を奪ってくるとか、平気でやっていたわけで、どれだけ恨まれたか。


■広島に住んだ時代もありました。

高校を卒業し、1年間ほど広島大で公務員として働きながら勉強もしてというような生活をしておりました。初恋もありました。そうい意味では広島市は青春の地でもありますね。

当初は広大の医学部で働いておりました。原爆放射能研究所に行ったり、ABCC(Atomic Bomb Casualty Commission)というところで働いている人の話を聞いたり、ホルマリン漬けになっているような人体を見たりしましたね。

またアメリカの反戦運動家バーバラ・レイノルズさんから小田実さんを紹介されたりしました。彼女はハノイまで反戦抗議するためにヨットで行ったというような人なんですが、小田実という人が家に来るんだけれども面白い人だから紹介しようと。(笑)

それでお会いしましたら強烈でしたね。彼が丁度、「何でも見てやろう」を書いて、2、3年経ったころでした。ギョロっとした目で物凄い早口の英語で話す。18才の頃でしたが私もまた好奇心の固まりでした。


■ヒロシマの川は澄み、流れていましたか。

原爆ドームの傍に元安川が流れています。原爆で火傷して熱くて飛び込んだとか、たくさん人が死んだところです。

川が、川として、川らしく流れていたのはせいぜい中学生の頃まででしょうか。その頃から日本経済は高度成長時代に入っていく。川の流れもどんどん変わっていく。建物はコンクリートになって、自動車が増え、道路も変わる。山は切り裂かれ、ハイウエイが通り、今も尾道から松江に掛けて貫かれている。

広島は不死鳥のように蘇ったと言われますがそうではない。破壊の中で人間がどう生きていくかという十字架を背負って生きていったわけで、やはり逞しかったんだと思います。みなさんよく働くし、広島だけじゃない、日本全体がそういった廃墟から立ち上がったわけです。

僕は1947年生まれですから終戦の2年後です。その時期は戦場に出て行った親たちが復員して還ってくる時期で、子どもたちにいろんな話をするわけです。これからのことも。どうやって自分たちの国を作っていかなければならないかとか。


■当時原爆ドームは高い建物でした。それがやられた。高いものを見るとどのような気持ちになりますか。今なお原爆ドームで時間は停止していますか。

高い建物を見て特別な感慨は湧きませんが、やはり東京タワーというのは一種の希望の象徴ではあったんでしょうね。今は工事が進んでいるスカイツリーでしょうか。(笑)

被爆した方の中には原爆ドームを見られないという人もいるでしょう。私自身は被爆はしていないので目はそむけない。ただケロイドになった人とか、耳が削がれた人とか、そういう方々が夏になると薄着になって半袖になって、そういう姿が露わになるとやはりショックを受けますね。




■9・11事件でマンハッタン高層ビルが撃破されたとき、どこにいましたか。

ラオスのビエンチャンにいました。日本のNGOに頼まれてワークショップを開いていた時です。

現地のニュースで知ったのですが、「カミカゼ攻撃」とか、「パールハーバー」といったような扱いでした。かつての日本軍の攻撃とダブって伝えているようでした。小さな国がアメリカという強大な国を相手に倒したというような印象でした。

実際、イスラム教のテロリストがアメリカを襲撃するわけですから、そういう特攻隊的な表現になるのかもしれませんね。

ただし、「パールハーバー」で死んだのは2000人ぐらい、ほとんど兵士です。その結果、その後、どういうことが起きたのか。東京空襲で10万人もの命が失われ、広島で14、5万人、また長崎で。つまり「パールハーバー」だけで終わらないリアクションがある。

「パールハーバー」とニュースが伝えた時、私は、そういうことがマンハッタンで起きたとすると、この結果、次は何が起きるんだろうと思った。それが、あの9・11を聞いたときに直ぐに考えたことですね。

そして、その結果が現に今に至っている。アフガン紛争、イラク戦争と続いている。そこでどれだけの人が死んでいるか。


■百年戦争のはじまりだと。

そうです。イラク戦争がはじまったとき、私は南アフリカにいて、帰る最終日の頃でした。イギリスやアメリカに反対声明を出そうという動きもあるなか、感じたことは、これから始まっていくんだなという思いですね。

実際、どんどんドミノになっていってアフガンからイラクにいく。イスラム教徒にとっては植民地国家としての意識がとても深いところにある。アリババと40人の盗賊の話じゃないが、自分たちがもっている石油、権益というもの誰か狙っていて奪いに来る。そのためには内部を乱してでも取りにやってくるということをよく知っている。現にそういうことになっている。イラクが大量兵器、核を持っていたわけじゃない。結局、石油が欲しかった。

私が描いた「さばくのきょうりゅう」という絵本も深いところに石油が眠っている。シルクロードを旅していると分かるんですが、小高い丘があちこちに見えてくる。その丘はやがて住居になって荒廃するとまたその場所に家が作られる。

だからその丘をずっと掘っていくと先史時代に到達する。人間の記憶や生活スタイルがぜんぶ層となって重なっているというわけです。そうして、その一番下に石油が眠っている。彼らはその一番下の石油を奪ったわけです。




■核爆弾を作った人間の英知をどう思いますか。

先ほどの軍曹の話ではないが人間は追いつめられると何でもする動物です。何にでもなれる存在だという気がします。それほど情けを知らない。究極的に戦いということになれば、日本軍も然り、関東軍なんか一般の人々を置いて逃げていった。人間は何でもやる恐ろしいところがある。

自然の中には、これ以上掘ってはならないという聖域的なところがあるんだと思うんですね。そういうもののひとつが核であったとも言える。

計算上満たされたとしても人類が生み出したプルトニウムをどうするかという議論もあるわけで、スェーデンなんかに運び深いところに貯蔵するとか無責任な話もありますが、2万年も3万年もこれをどうするのか。他にも廃棄物が相当出てきます。

人間の英知というものとそれによって生み出されてきたものとの関係をどうするかというのは、今、最終局面にきているように思いますね。

一方に人間の英知はこの危機を切り抜けられるという楽観論はあります。ただし、また一方で人間は利益を得たいという欲望がある。絶対欲望に負けないという。しかし、ある意味それは幻想でもありうることです。いずれにしても私たちはすれすれのところを走っているように見えますね。


■英知が人を幸福にするか、不幸にするかという問題は、教育が介在しているかどうか、教育が果たし得る役割という問題でもあります。

やはり人類の知識と知恵の長い戦いがある。古代、哲学者は知恵者と呼ばれていたわけですが、現代は知識人がもてはやされる風潮にある。

知識はコピーしたりペーストしたり、どれだけたくさん持っているかが評価されるのだと思うんですが、知恵は量ではない。

人間が幸せになれるか、個人が充実するか、といったかたちで考えていく。視点を変える必要があると思いますね。

つづく