1. ヒロシマの記憶
2. 故郷の忘れもの
3. 学生運動とインドの世界
4. アジアと識字教育
5. 寓話の可能性
6. 子どもたちへ
7. 同時代と夢
■大学ノートの余白にした走り書きや落書きを覚えていますか。
ビジュアルに、視覚的に表現するのが好きですから、そんなものが。
決定的だったのは、21か2のときの体験ですね。学生運動に関わったのですが、と言ってもたいした活動ではではなくて、ほとんどの学生がそうでしたがノンポリ・ラジカルで。そのとき自分の生き方が何だか分からなくなりまして、三島にある龍澤寺の坊さんから、一晩中酒を飲みながら自然や宇宙というものについて話を聞いたんですね。するとなんとなくいろんなことを悟ってしまいましてね、その悟った内容を大隈講堂で喋り出したんです。最初は、5、60人話を聞いてくれていたんですが、次になると20人くらいになり、それで大隈小講堂に移って。あ、なんか、みんな聞いてくれないんだなあと思って。(笑)
そのとき考えたことは自分が感じたものを物語にしてみようと。分かりやすい物語にしたらみんなが聞いてくれるんじゃないかと。それで物語を書き始めたんですね。一種のメッセージ性をもって書こうと思ったんだと思いますね。
■大学では勉強をするという雰囲気はあったんですか。
当時は先生を吊るし上げるということでしたからね。(笑)
あの頃、中国では文化大革命が進行していて、知識人よお前たちはいったい何者かと言って吊るし上げていた。知識人はどういう役割を果たさないといけないのかという意味で。学生らは団塊の世代ですが、彼らがたくさん社会に出てきて、ひとつの器に合わなかったんでしょうね。社会は適応していかなきゃならんのに旧態依然とした体制を維持していましてね。
■運動には長く関わったのですか。
いいえ。運動よりも、どう生きるかという比重で考えていましてね。ただ僕は、安田講堂の裏にあった広島県の寮に住んでいたために、そこで寮闘争なんかがありまして、寮自体が運動の現場でした。
私の身の回りで、反戦とか大学をどう改革するのかとか、多くのいろんなものが運動とかが繋がっていたんですね。
■運動自体について、どう評価されていますか。挫折感は?
あるところでも書いているんですが、要するにいったい全共闘運動というものが何であったのかということが分かっていない。
思うに、古い体質の社会に団塊の世代が大量にやって来て、マンモス授業とかがぶつかると同時にベトナム戦争が進行して日本が巻き込まれるんじゃないかというような不安もあって、一方でベトナム特需のようなもので日本だけが潤っていくという中で、自分たちの生き方を考えたんだと思うんですね。
生き方を考えるとき、大きな流れの中で社会改革をやっていこうとしたときに、非常に小さな一握のセクトと呼ばれる、赤軍とか、ああいった極ごく少数のものに象徴されてしまって、そこが叩かれてしまって全部がお仕舞になってしまった。
■挫折は一部でしか捉えていない。大きな流れが矮小化された。
はい。同時に続いているんです。卒業してしまったら学生という身分ではなくなる。形としてはそこで終わり。しかしみんなどこへ行ったかというと、結局、市民の中へ入っていったり、消費者運動とか、環境保護とか、そこから始まっていきましたね。1970年代、80年代と。水俣問題もあった。
学生運動を体験した人間が社会にどう異議申し立てするかという、いろんな形で影響を与えていったということなんですね。その意味で続いてきていると思うんですね。少なくとも僕はその意識でずっと来ている。ユネスコの仕事を長くやってきたのもその気持ちが根っこにある。
あるとき、中央大学の広場で哲学者の羽仁五郎が演説の最初にこう言ったんです。君たちのこの戦いはいずれ敗れるであろうと。(笑) そうしたらヘルメットかぶった連中がウワーッとナンセンスと。(笑) そして何をしゃべるかと言うと、冷静になって、君たちは自分たちの戦力という形で考えるかもしれないが権力はそんな甘くないと。しかし敗れたとしてもその中から新しい社会というものが育っていくんだからと。そのひと言が印象的でしたね。
そんなふうに全共闘運動はいろんなことを体験、経験してきて、それがいろんなところへ拡散していったと思います。
■インドへ留学されていますが、直前にヨーロッパで生活しています。
まずイタリアのフィレンツェに3か月、9か月間をミュンヘンに。1975年ぐらいですか。1年間いました。ミュンヘンからトルコ経由でインドへと。
当初ヨーロッパに行くことは考えていなかったのですが、インドへ行くためにビザが出なくて苦肉の策でした。
それに一度はヨーロッパを見ておきたいと思いまして。やはりヨーロッパというものを自分の中で消化しておきたいと思いましてね。
■なぜ、イタリアとドイツに。
イタリア、それもフローレンスはルネッサンスの揺籃の地でもありましたし。
ドイツには文学とか文化そのものに何か憧れがありまして。シュタイナーやケストナーなど魅力的な人間たちもいます。ダッハウ強制収容所なんかも見ておきたいと思いましたね。
日本との共通なものも見えましたし、やはり熱烈にヨーロッパを目指していた時代は終わっていたけれど冷静にヨーロッパというもの分析すると見えてくるものがあった。
■後年、ベルリンの地で自作の朗読をされています。壁の崩壊後に行かれてどう思われました。
2001年にベルリン第1回国際文学祭に呼ばれたときに、ブランデンベルグ門のすぐ傍にあった会議場に東西両ドイツの作家が集まりまして色々な話をしました。
壁の崩壊から約10年が経過していましたが、東の作家が西へ移ってきたけれど裏切られたような感じがあるというようなことを言う。これは「沈黙の占領である」といった者もいましたね。
ベルリンの壁を見ましたが、人間が引き裂かれた一つの壁、傷をどう治していくのか。そういう感慨を抱きました。
■ドイツから2ヶ月かけてシルクロードを旅しインドへ辿りつきます。目的は。
学校を作る目的でインドへ行きました。タゴールがつくった学校でヴィシュヴァ・バーラティという。そこで学んでみたい。できればそのような学校を日本に作ってみたいと。
でも、学校はベンガルという大きな土地にあって、ベンガル人の他にサンタル人という少数民族がたくさん住んでいるところで、彼らはひどく差別されていて、学校にも来ていない、それで僕はなんかこれは良くないないなと思いましてね。学校自体も講座制のああいう講義は面白くないんですよね。学生運動なんか経験していたものですから。(笑)
それで授業には全く出ないで、自分一人で砂漠に小さな学校を作って毎日子どもと遊んでいた。(笑)
■タゴールの思想は作品として影響を受けていますか。循環とか。輪廻とか。
思想自体は全くありません。ただ「循環」というのは共通していますね。自分が親しかった人が亡くなり、荼毘に伏すときなどを考えますと万物が灰になって帰っていく。その灰が自然に還っていく。そこから生命が宿っていく再生という考え方が基本にある。
その再生を人間の恣意性や人為によって断ち切ろうとするとそこに無理がある。
この考え方は日本にも共通してある。花が実を付けて落ちていく。そしてまた腐葉土を作り、というふうに巡る。自然の樹木なんかも全部そうですね。人間にはそれが出来ない。自然から離れてしまった。だから自然とどう生きるか。それゆえ人為的に知恵を自然から取り出さないといけないというのはある。
■「私はなんとなく砂漠にあこがれた」と記録しています。シルクロードや砂漠を旅をし、忘れられないエピソードはありますか。
数えられません。(笑) イランでのことでした。大きなバスで移動していたんですが、欧米からの旅行者が大勢いたなかで、日本人だということでとても歓迎してくれていたのですが、当時ブルースリーが流行っていたこともあって、お前はブルースリーの国から来たのかと言うんです。そしたらいきなり試合をしたいと言いだしましてね。(笑)
今にも飛びかかってきそうになりましてね、それで僕は長旅で疲れているからと言って引き取ってもらいましたけどね。(笑)
同じようなことは重なるもので、日本で柔道を習ってきたという男が現れまして、僕は高校で少しやったぐらいだと言うと明日の朝柔道の試合をしたいって。もうこれ以上言うまいと、私は思いましたね。(笑)
■旅先には生活する民がいる。
アフガニスタンを旅している時ですが古い煙突が見えてきた。工場地帯かなと。近づいてみるとそれは遺跡でイスラムの尖塔でした。
シルクロードというのは、どんどんどんどん変化と荒廃が繰り返され、そしてまた新しいものが作られる。変化が目まぐるしく起こってきたところなんですね。今古い高い塔があるということは、その昔そこはたいそう栄えていた人々の生活の拠点だったんです。
バスの中で非常に熱くて喉がからからになっていたときに、僕を見ていたお爺さんがひと房の葡萄をくれるんです。彼らの文化には人をきちんともてなすということがあります。
僕のアフガニスタンへのイメージは、今のタリバンというものとは全く違っていて、物凄くいいものなんです。世界でも稀有な非常に素晴らしい民族であると。優しくて、素朴で知恵がある民族は他にいない。
カンボジアも同じです。ポル・ポトとか一握りの人間が変になる時期もあるけれど、もともとは大変素晴らしい民族です。
つづく