別冊クラッセ|理想教育を拓く人々|柳谷晃

時代に敏感な現役教師は少ない
教育の未来は見えているのか。
教師に希望はあるのか。
理想教師像とはいったい何か。
教師の品格」を書き続ける理由を尋ねる。








現代はどの分野も閉塞感が漂うという空気があります。
現場の教師として、この時代をどう見ていますか?
同時代を生きる教師にとっては受難の時代と言えましょうか。

教師が受難ではないと思います。

今までの経済の発想をそのまま引きずっていることが問題です。たとえば、市場を探す、労働力を探す。日本になければ、中国、中国でだめなら、ベトナム。

どんどん売るところや、作るところを探しても、地球は有限です。大きく見えても地球は有限。どこかで止まります。うまく自分の国で循環させることができるかどうか。これが大きな問題です。

そのためには、便利になりすぎたことに、気がつかないといけません。自分で持っている力を使う努力をしないといけない。




教師が受難なのではなく、本当の意味で人間が幸せなのはどういうことかを見失っている世界が不幸なのでしょう。

便利ですから、最低限生きていく力というのがわからない。小学校4年生くらいまでの勉強は、生きていく上での最低限の力です。

野生動物でも、最低限の生きていく力は親が教えます。これを躾といいます。挨拶が躾なら、算数の九九も躾です。昔の人にとって、ソロバンも躾です。余計な塾に行くならソロバン塾に行く方がいい。というのですが、最近はソロバン塾を探すのが大変です。

家庭の役割を便利さが壊してしまった。学校と家庭の役割の線引ができていない。学校は、本来知識の蓄積をするところです。躾の場ではありません。座ってなければ習いないという指導をするところではないのです。人の話を聞くときは、座っていろというのは家庭の役割です。

今の話を小学校の話だと思っていはいけません。大学生が30分経つと歩きまわります。それも特別な学校ではないですよ。日本中の人が名前を知っているような学校でも起きています。

教師が受難ではなく、社会が受難。

そしてその原因は、便利が当たり前、自分の利益が最優先、そういう考え方をしてきた社会でしょうね。この問題を打開するために、学校で学生に教育することが必要です。




紙の上の知識だけでは、何かおかしいという感ができません。偏差値は上がるかもしれませんが。体で感じる「感」が生きていく力ですね。コンピュータを使って授業をするなど、ますますこの悪い状態を助長します。ソロバンは感ができます。電卓は感が育ちません。

どんな勉強も体で覚えるのが基本です。ちゃんと勉強したことがない教員は、この文章は絶対にわかりません。

私は人口が減るのは、千載一遇のチャンスだと思っています。日本経済を立て直すチャンスです。人口が増えるのがいつでもいいと思ったら間違いだという考え方もあるということを、教えていくことも必要です。

本当の問題は教科書の問いではなくて、こういう社会の中にある、現実問題です。現実の問題に、どのように自分の知識を使って答えていくか。その力を小学校から大学までつけるための教育です。




すでに「教師の品格」を著し、さらにその後続、「続・教師の品格」に挑もうとしています。書き表さなければ、理想の教師は見えてこない、という使命感をかんじることができます。
書かなければならない、その真意について教えてください。

この答えは単純です。嘘を教える人が多いからです。

そして、嘘を教えている人が、自分の嘘に気付いていない。ちゃんと自分の専門の勉強をしてこなかったんでしょうね。それで、こういう人たちは自分では、勉強しているつもりでいるんです。

たいていの場合、それは、その科目の本質ではなくて、教え方なんですね。教え方を勉強するということは、専門の知識の上に載せるものです。

教育大系の大学には、専門の知識がなくて、教え方のデータだけ集計したような教授がたくさんいます。こういう人たちは、本当の学問を教えることができない。

習う方も、それほどの実力がない。あれば、今の教育大系の大学などに入らない。教員の力は、専門分野の知識とそれを得るためにどのように勉強してきたか、そして、現在もどのように勉強しているかで決まります。

大学で専門分野の勉強をしっかりしなかった人間が、教員になって、自分で勉強するとどうなるか。できない人間の独りよがりの勉強になります。こういう教員は学生の勉強の邪魔ですね。私も経験がありますが、どうしてこのレベル(の方)が私に授業をしているのかと思ったこともありますよ。

独りよがりに進歩はないです。その割に、話はうまくなりますし、できない同士の傷のなめあいを生徒とするので、生徒や親からの評判は結構いいわけです。

授業で嘘をついている教員が、生徒や親に評判がよいという現象はよくあります。できない同士が傷をなめあって、それで何かが生まれるなら、こんな楽なことはない。そこに、そんなことをやっていたら、できるようにならない、という先生が現れたらどうなるか? 「不親切」という言葉で片付けられるわけですね。




親も、教員も勉強の力を正確に評価することができない。そんな親と教員では意味がない。それでも、親方日の丸だから学校はつぶれない。でも、社会はつぶれる可能性があります。

現実の問題を解決するときに、やさしく説明するという発想自体が無意味です。現実をそのまま理解できなければ、問題は解決できない。

現実は私たちに合わせてくれないですから、私たちが現実に合わせる。学生が生徒が、歴史や数学に合わせる。自分が変るんです。それを生徒に合わせた教え方、個性に合わせる、とか馬鹿なことを言ってはいけない。

実力のないことを個性という言葉で置き換える、実力のない人間がたくさんいます。勉強は、自分を現実に合わせる、自分を人に合わせる。これが最初です。

専門家が専門用語を使うのは、それをつかうほうがわかりやすいからです。一般の人より自分が偉いと思わせるために、専門用語を使っているわけではありません。

テレビで池上彰氏が、「専門家は、専門家でない人がどこがわからないかわからないので、専門用語を使う」と言っていました。彼の発言自体が池上彰という人間が勉強をまともにしていない証拠です。

子供のころ、悪いおじさんについていっちゃだめよ、と言われましたよね。彼は、典型的な悪いおじさんです。




■書かなければ、その向こうに、教師の理想が見えてこないと。

というよりは、書かないとわからない人がほとんどになってしまったからです。

自分でお金を出して、自分の子供を馬鹿にしろと、人に言うようなことをしている。本来勉強は何のためにするのか。親のしつけは何のためにあるのか。原点に戻そうと思っています。

ですから、教員とか、教師とかが問題ではなく、近くのわかっているおじさんに習えばいいのです。私も教師とかあまり言われたくないです。数学のできるおじさんの方がいいですね。

親がいい先生だったり、近くの職人さんや、農家のお父さんがいい先生だったり。自分の子供のころは、そうでしたね。私の父親はいい数学の先生でしたよ。


■教師の品格では、教育現場における矛盾を告発しました。しかし、そこには、実際に教壇に立つ実践者としての人間愛が通底しています。

「続・教師の品格」のその先に、教育の未来は、見えていますか?
後を追ってくる次世代の教師たちに、何を期待しますか。
未来の教師に、希望を見出すことができますか?

批判だけというのは、元々意味のないことです。批判は簡単ですから。

「教師の品格」を書いた時も、学校に対するトラウマがなくなりましたという、お手紙やメールをいただきました。馬鹿な教員からの文句よりはるかに多かったですね。感謝の方が。ありがたいことだと思っています。

私は、専門家面とか教師面をする人が嫌いなだけです。教師はこうあるべきだとか言うのに限って、専門知識も何にもない。金八先生のようなできそこないなわけです。




先生は学校にいるわけではないですね。どこにでもいるんです。私は、父と近所のお兄さんに数学を習いました。そのお兄さんは、東大の建築の教授になりましたが。どこにいい先生がいるかわかりませんよ。

データを集めて、専門知識もないのに教育大系の教授になった人に教わっても、自分で気が付いたら、本物の専門家に習いに行けば立派な先生になります。現場の教員が、技術系の工場で働く人に、理科がかなうわけがないでしょう。学生と一緒に勉強すればいいんです。

先生になる人は、たいていは普通の脳細胞です。特に凄い力を持っているわけではありません。でも、本物に習うと本当の専門分野の姿が見えてきます。それを使って教えることが大切です。

今は大学も、色々門戸を開放して、授業が取りやすくなっています。教授の名前がほしい人でなく、本物から習うことが大切です。

そうすると、頭でなく、体で知識を感じることを、ちょっとはわかるようになります。これを使えば本当の授業ができます。教授でなくてもかまいません。街の中に、習うべき人がたくさんいると思いますが。自分は教師だ、とかなんかふんぞり返っている心があると、町の天才を見つけることはできません。